"バスで市政教室"、近くに自分の
   未体験ゾーンが多く存在していた!



2018/05/17



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毎年お誘いして頂いている ”バスで市政教室”、開催者の”石山よかクラブ21”会長の畠山さんから本年も開催案内を頂いたので、喜んで参加の申し込みを行わせて頂きました!

あいにく開催日は、風雨が強く寒くもあり天候には恵まれませんでしたが、私をはじめ参加者のほとんどは、今回の訪問先3カ所は初めての場所であったので、見聞を広げることができ、かつ楽しく見学させていただきました。


今日の訪問先は、 (石山よかクラブ21の開催案内から抜粋)

10:OO~11 :OO 山ノ下閘門(こうもん)・排水機場
地域を水害から守るために建設された施設。通船川と栗の木川の河川水を排水する役割を担う、船が通航するための閘門(こうもん)の動きが見られるかな!

11 :30~1 2 : 50 医の博物館・ 昼食
日本で唯一の医学博物館。『解体新書』の原本やナイチングール自筆書簡など、16~20世紀の医・薬・歯学に関する貴重な史料が沢山・・・

13:30~15:00 航空自衛隊・新潟救難隊  
← HP掲載して半月後に全削除要請がり削除する
いざという時の任務に備える救難隊の訓練や装備を見学し認識を新たに。捜索航空機や救難ヘリコプターも身近に見られるよ!


畠山会長の車内挨拶によれは、昨年の暑い時期(7~8月)に屋外作業を連日頑張りすぎたため、本年に入り2カ月間ほど体調を大きく崩し大変だったとのことなので、遅くではありますがお見舞い申し上げます。これから梅雨や梅雨明け後の猛暑が巡ってきますが、無理せず休養を重んじ適度な運動などによって健康管理に努めてください。

今回の訪問先は、畠山会長も初訪問だとのこと。新規の3カ所を選択し交渉された”吉田さん”有り難うご座いました。自分を含めほとんどの参加者が初めての訪問先は勉強になり楽しかったです。


この人が毎回お誘い下さる畠山会長さんです。有り難うございました。





今回の訪問先を立案してくれた吉田さんです。有り難うございました。







最初の訪問先  山ノ下閘門・排水機場   文頭に戻る





山の下閘門排水機場のモダンな4階の会議室で説明を受ける





山の下閘門排水機場の概要  (配布頂いたパンフレットから抜粋)

 通船川、栗ノ木川流域は、いわゆるゼロメートル地帯が多く、昭和39年の新潟地震では甚大な浸水被害がありました。新潟県はこの災害復旧にあたり、従来の「築堤方式」ではなく、人工的に河川水位を低くする「低水路方式」とするため、山の下閘門排水機場を建設しました。その後、平成10年に発生した8.4水害の後には、新排水機場を増設しています。

 当機場では、24時間体制で気象・水位等を監視し、排水ポンプの運転で通船川、栗ノ木川の水位(標高-1.65m)を維持するとともに、船が通航できるように、信濃川の水位(標高十0.65m)との差を閘門で調整しています。東新潟地域を浸水被害から守る重要な役割を担う施設です。








山の下閘門排水機場の建設の経緯

大きな被害を受けた新潟地震

新潟地震による被害の状況

 昭和39(1964)年6月16日午後1時01分、マグニチュード7.5の新潟地震が発生しました。
 東新潟地域は、旧阿賀野川の河道跡で、軟弱な地盤となっています。昭和36年以降、地盤沈下対策で河川堤防の嵩上げが行われ、地震発生前に大半を完了していましたが、地震により全域で堤防の陥没・倒壊が起こり、河川機能を喪失してしまいました。
 特に、いわゆるゼロメートル地帯には河川水が流入し、長期間湛水するなど、大きな被害を受けました。



地震後の明石通り付近の様子

災害復旧計画

 地震直後に、東新潟河川総合対策事業として復旧計画が策定されました。
 この計画では、被災地域の発展と災害の再発防止の観点から、これまでの「築堤方式」による復旧ではなく、抜本的対策として、河川水位を人工的に低下させる「低水路方式」を採用することとなりました。


生まれ変わった通船川


昭和37年頃の通船川


現在の通船川


閘門・排水機場の建設

 昭和39年に復旧事業が着手され、排水機場・閘門の建設、堤防改修、浚渫等、総事業費30億円で、昭和43年に完了しました。
 通船川は、山の下と津島屋に建設された閘門排水機場で両端を締め切られ、流入量と排水量を調節することで、低水位を維持できるようになりました。


建設中の山の下閘門排水機場

河川低水路化による効果

(1)地域を浸水から守りやすくなる
(2)それまでポンプで排水していた都市排水の大部分が、通船川・栗ノ木川に自然排水できるようになる
(3)川沿いの土地の利用がしやすくなる



ゼロメートル地帯を流れる通船川・栗の木川


 通船川は、津島屋で阿賀野川から分かれ、山の下で栗ノ木川と合流した後、信濃川に合流する川です。
 周辺はゼロメートル地帯が多く、通船川と栗ノ木川の管理水位(標高-1.65m)を、信濃川と阿賀野川の水位(標高十0・66m)に対して2m以上低くすることで、浸水を防いでいます。
 また、この低い土地に降った雨は、自然には信濃川や阿賀野川に排水されないため、ポンプによる排水が必要になっています。







8.4水害を繰り返さないために

 平成10(1998)年8月4日未明から、新潟市周辺で観測史上最大の豪雨が降り、既設ポンプの排水能力を上回り、通船川と栗ノ木川があふれる事態となりました。(通船川流域で床上浸水598戸、床下浸水1,144戸) 

 この対策として、山の下閘門排水機場の排水能力を増強することとなり、同年10月に新排水機場建設事業(建設費約64億円)に着手し、平成15年3月に完成しました。これにより、山の下閘門排水機場の排水能力は、21.6㎥/sから51.6㎥/sと2倍以上に増強されました。(8.4水害と同程度の豪雨でも床上浸水がなく、床下浸水は75%減の想定)








[平成10年8.4水害]
 新潟県北部に停滞していた梅雨前線に向かって南西方面から暖かく湿った空気が入ったため、活発化した梅雨前線の影響で新潟市周辺は8月4日未明から雷を伴う激しい雨が降り続いた。新潟地方気象台観測で時間最大64mm(8月4日午前3時45分からの60分で97mm)、日雨量265mmを記録し、観測史上最大となった。




通船川は昔、阿賀野川でした

 江戸時代の中頃、阿賀野川は信濃川と合流した後に日本海に注いでいたため、信濃川河口の新潟湊(現在の新潟西港)は、水量が多く水深の深い良い港で、多くの船が集まる港町として賑わいました。
 享保15(1730)年、新田開発に取り組んでいた新発田藩が、松ヶ崎に水路を掘り、洪水の時だけ海へ直接流す堰を造りました。しかし、翌年春の雪解け水が洪水となり、堰が壊れて本流となってしまい、以後、阿賀野川は、現在の新潟空港の脇から直接日本海に流れるようになりました。
 このため、新潟湊には阿賀野川の水がほとんど流れなくなり、湊が浅くなったり、阿賀野川方面からの船が通れなくなったりする、困った事態となりました。
 そこで、かつての阿賀野川本流の跡を整備し、船が通れるようにしたのが、通船川の始まりです。




道路になった栗の木川

 栗ノ木川は、江戸時代から舟運で沼垂町の発展を支えるとともに、大湿地帯だった亀田郷の排水路として、長年にわたり重要な役割を担い、昭和23年には栗ノ木排水機場が完成しました。
 しかし、地盤沈下や昭和39年に発生した新潟地震の災害復旧工事などによって、その役目は親松排水機場(昭和43年完成)に移されました。
 その後、栗ノ木川は下流部を埋め立てられ、昭和46年に栗ノ木バイパスとして生まれ変わりました。
 現在の栗ノ木川は、明治28年に完成した分水路です。





新潟市のその他の主な排水・揚水機施設

竹尾揚水機場
 山の下から遠隔操作するポンプで鳥屋野潟の水を揚げ、栗ノ木川の浄化用水として供給しています。潅漑用ポンプ2台を併設する農地部(亀田郷土地改良区へ委託)と土地建物、電気設備、除塵設備が共用となっています。


津島屋閘門排水機場
 非常な大雨等により、山の下のポンプ4台では排水能力が不足する場合に、現地操作でポンプを運転します。山の下同様に閘門施設があり、阿賀野川の水を自然流入させ、通船川の浄化用水としています。


新井郷川閘門
 現在は後扉は撤去され閘門機能はありませんが、派川新井郷川分水路内の水害防止の水門として機能しています。新井郷川分水路の増水・波浪時に現地で閉操作を行います。






以上、山の下閘門排水機場の会議室で説明を受けた後、実際の水門の開閉を見学させてもらった

閘門は、川の上流側と下流側に水門がある。下の写真は上流側の水門であり開門されていた。左側が信濃川に通じている川で、右側の下流側は通船川および栗の木川に通じている。下流側の水面は信濃川より2m水位が低い。見学開始の時点では下流側の水門は閉じられていた。

と言うことで、信濃川の水位と下流側の閉じられている水門までの水位は同じ高さだ。開かれている上流側の水門を通り下流側に進んだ船や材木筏は、上流側の水門を閉じてから下流側の水門を開けば放流が行われ、上流側の水門の水位が2m下がり、下流側の水位と同じになって、通船川および栗の木川に進むことが出来るのだ。水門を閉じる順序を反対にすれば、下流側の船を2m高い水位の信濃川に進めることが出来る。





上流側(信濃川)の開かれている水門、下流側の水門は閉じられてるので下流側より水位は2m高い




上流側の水門を閉じる。









閉じ終わったら下流側の水門を開けば、2m高い信濃川の水流が下流側に放流される。




勢いもって轟く(とどろく)水流音がダイナミックだ!




放流され水位が下流側と同じになれば先ほどまでの威勢の良さは皆無となる










下流側の水門を閉じて、今度は上流側の水門を開けば当然ながら上流水門に信濃川からの川水が流れ込むのだ!














二番目の見学先 医の博物館   文頭に戻る


わが国で唯一の医学博物館 医の博物館パンフレットより抜粋
 本館は、日本で唯一の医学博物館です。
 平成元年(1989)9月に、わが国最初の公的な医学博物館(新潟県指定)として開館しました。
 その名のとおり、歴史的資料(史料)を通して、医学史を教育研究し、あわせて史料を一般公開し学術文化に寄与することを目的としています。
 現在は過去の蓄積ですから、私どもの今は、先人の努力の積み重ねの上に成り立っています。とりわけ、学術文化の世界においては、後人の仕事はあくまで先人の活動の継承であります。
 その意味から、歴史のない学問はありません。私どもは、先人の残した学問的遺産を大切にしたいと考えています。
 本館の所蔵する史料は、すべて篤志ある方々からの寄贈によるものです。江戸時代から昭和時代に至る医・歯・薬に関する史料、約5,000点が展示・保管してあります。











この先に ”医の博物館” が存在する  パンフレット写真を転用









歯科医師W.T.G.モートンによる硫黄工一テルを用いた最初の全身麻酔手術(1846年10月16日・ボストン)

史料は医・歯・薬の5,000点


わが国最初の肺分(人体解剖)を記録した山脇東洋の「蔵志」、図の色は手彩色で描かれた(1759年・江戸)
 史料は、古医書、浮世絵、医療器機、医療器具、その他の記録類に分けられます。主な古医書としては、次の原本が挙げられます。
ガレヌス「脈拍入門」………………………………1550年
ガレヌス「ヒポクラテス註釈」……………………1552年
A.ヴェサリウス「人体構造論」……………………1555年
ガレヌス「淀腸と腹痛」……………………………1591年
A.パレ「パレ全集」…………………………………1607年
ヒポクラテス「ヒポクラテス全集」………………1652年
w.ハーヴェイ「血液循環論」………………………1673年
P.フォシャール「外科歯科医」……………………1728年
J.A.クルムス「解剖図譜」…………………………1734年
P.パッフ[人の歯とその疾病]……………………1756年
山脇東洋「蔵志」……………………………………1759年
J.ハンター「人の歯の博物学」……………………1771年
杉田玄白・前野良沢「解体新書」…………………1774年
J.ハンター「性病に関する論文」…………………1786年
E.ジェンナー「牛痘の原因と作用に関する研究」1798年
大槻玄沢「重訂解体新書」…………………………1826年
C.ダーウィン「種の起原」…………………………1859年
F.ナイチンゲール「看護ノート」…………………1860年
F.ナイチンゲール「病院ノート」…………………1860年


医学博物館の一階は食堂なので、学生と一緒の場所で昼食をいただきました




医の博物館の展示物は盛り沢山で見ごたえ充分だった!
































昔の歯の治療は怖かった。頭を殴り気絶させて抜歯を行うこともあったとのこと!
























三番目の見学先  航空自衛隊・新潟救難隊   文頭に戻る


34歳と若いパイロット兼広報係の箱田貴久さんから説明を受ける。説明いただいた内容や見学時に撮影を行った写真を、訪問日翌日には私のホームページに、訪問内容をアップした旨をメールしてあったのですが、確認した旨の返信メールは無く、約半月後の6月2日にご本人から、今まで下記にアップしていた航空自衛隊に関する説明文や掲載写真を全削除するように要請を受けました。まったくもって、不信感そのものですが航空自衛隊に関する見学時の説明や写真を全削除することとしました。




航空自衛隊・新潟救援隊の説明文・掲載写真を全削除する





今回も ”バスで市政教室” に参加させていただいたことで、初めての場所や施設等を知ることが出来て大変に勉強になり楽しかったです。”石山よかクラブ21”の皆様に改めて御礼を申し上げます。








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